11/8 年間第32主日ミサ 説教

2020/11/5

          油を用意するー年間第32主日A年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音25章1-13節  譬話の表題(1節)  今日の福音は「十人のおとめの譬話」といわれています。新共同訳は「おとめ」と訳していますが、「花嫁の付添人(つきそいにん)」と訳している聖書もあります。1節は表題のような役割を果たしており、「それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」(=花嫁の付添人の)務めを与えられた十人のおとめたちが主人公となります。  この譬話の背景となっている結婚のならわしは次のとおりです。結婚式は夜行われます。まず夕方、花婿と花婿の付添人たちとは、花嫁を花婿の父の家に連れてくるために、盛大な行列をつくって花嫁の家におもむきます。  ベツレヘム地方のならわしでは、結婚式の「おとめたち」(花嫁の付添人)は、棒のはしに布を巻きつけ、それを油にひたして、「たいまつ」のようなもの(新共同訳では「ともし火」と訳されています)をつくり、これを「あかり」として用います。彼女らは明るいうちに花嫁の家に集まり、たいまつに火をつけないまま花婿の到着を待ちます。  たいがいの場合、花婿がわは遅れます。これは、結婚条件としての花嫁の家族への贈り物を決定するのに時間がかかるからです(贈り物が高価であることは、花嫁の家族が花嫁を放したがらず、花嫁の値を高くつけたことを意味します)。  本文の場合、やっと花婿がわの行列が着くと、「おとめたち」(花嫁の付添人)はみな起こされて、たいまつに火をともします。そのとき、愚かなおとめたちは、たいまつのための油を用意してこなかったことに気がつきます。行列だけでなく、花婿の家に着いてからも、たいまつ踊りなどのために、何回も油を注ぐ必要がありました。五人の愚かなおとめたちが遅れてやってきたのは(11節)、この花婿の父の家における結婚式に、です。  譬話の本体(2-12節)  2-12節が譬話の本体となりますが、この本体はさらに三つの段落に分けられます。  第一段落 主人公の「十人のおとめ」の様子 愚かさと賢さ(2-5節)  十人のおとめのうち、五人は愚かで、五人は賢いおとめでしたが(2節)、その違いを生み出す原因は、 愚かなおとめたちは、┅┅油の用意をしていなかった(3節)。        賢いおとめたちは、┅┅壺(つぼ)に油を入れて持っていた(4節)  油を用意していたかどうかが愚かさと賢さの分かれ目となっています。しかも、5節には「皆眠気がさして眠り込んでしまった」とありますから、油を用意していたかどうかが、両者を分けるしるしとされているのは明らかです。賢さを示すしるしは「油」にあります。  第二段落 花婿の到来がもたらす混乱 「花婿だ。迎えに出なさい」(6-9節)  真夜中に、「花婿だ。迎えに出なさい」(6節)という叫び声があがり、おとめたちは起き上がり、「それぞれのともし火」から燃えかすを取り除き、再び燃えるようにと油にひたします。「愚かなおとめ」も「賢いおとめ」もともし火を整える段階までは同じですが(7節)、ともし火が消えかかっているのに気づいたとき(8節)、両者の差は歴然とします。油の用意を怠った(おこたった)「愚かなおとめ」は、頼みを断られ(9節)、店に走らねばならない羽目に陥ります(おちいります 10節))。  賢さのしるしとなる「油」は、簡単には分け与えることのできない何かなのです。  第三段落 十人のおとめの運命が分離する 「私はお前たちを知らない」(10-12節)  「愚かなおとめ」が油を買いに出ている間に、花婿が来て、油の「用意のできている」五人が婚宴の席(=天の国)に入ると、戸が閉じられてしまいます(10節)。外に残ったおとめたちは戻って来て、「主よ(御主人様)、主よ」と繰り返して、開けるようにと願いますが(11節)、「私はお前たちを知らない」と断られます(12節)。こうして、十人のおとめの間にはっきりとした「分離」が生じます。この「分離」をもたらしたのは「油」です。  譬話の結び(13節)  「目を覚ましていなさい」(13節)は、マタイが加えた編集句であり、これは譬話の内容に適合していません。譬話では「愚かなおとめ」のみでなく「賢いおとめ」も眠り込んでしまうのであり(5節)、花婿が到来したときには「愚かなおとめ」も目を覚まします(7節)。譬話の問題点はおとめたちが眠ったことではなく十分な油を用意しているか否かです。  今日の福音のまとめ  今日の福音は、終末(=キリストの再臨)を前にして生きるキリスト者の生き方をテーマとしています。花婿の到来(=キリストの再臨)に向かって、用意すべきものは「油」です。  マタイ5章16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、┅┅」とありますから、マタイにとって光(=ともし火)は「善い業」(=立派な行い)を意味しています。しかし、マタイ5章の光は神から来る光です。だとすれば「油」は「聖霊」を指しています。「愚かなおとめ」の「愚かさ」は「油を分けてください」(8節)と頼んだことにあります。「油」は聖霊であり、善い業ですから、他人が代わることができず、自分で手に入れなければならないものです。もう一つの「愚かさ」は、油の不足を終末(=キリストの再臨)のときまで気づかず、求め始めたのが遅すぎたことです。そこで、聖パウロは「聖霊の油」によってともされる「ともし火」を「善い業」として、「霊の火を消してはいけません」(Ⅰテサロニケ書5章19節)と私たちに忠告するのです。                    2020年11月8日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第32主日 2020年11月8日 油を用意する マタイによる福音25章1-13節

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