12/27 聖家族 祝日ミサ 説教

2020/12/23

       沈黙・家庭生活の教訓・労働の教訓―聖家族B年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   ルカによる福音2章22-40節  今日の福音の構成  今日の福音は28-35節を中心とするコンチェントリック(求心的)な構成で書かれています。それを図示すると下のようになります。  a 「主の律法」に従う両親(22-24節)。   b 慰めを「待ち望む」シメオンが「神殿」に入る(25-27節)。    c シメオンは幼子を抱いて、神を「たたえ」、両親を「祝福し」ます     (28-35節)。   b´「神殿」から離れなかったアンナが解放を「待ち望む」人々に幼子のことを伝える     (36-38節)。  a´「主の律法」に従った両親(39-40節)。  aでは、「主の律法」の規定に従い、幼子を主に献げるためにエルサレム神殿に上ったことが語られます。このaに対応するのが、a´であり、「主の律法」の定めを終えた両親がナザレに戻ったことを述べています。両親は「主の律法」に従ってエルサレム神殿に上り、「主の律法」を果たすと、生活の場ナザレに帰ります。  bでは、「イスラエルの慰められるのを待ち望む」シメオンを登場し、「神殿」に入った彼は、イエスに出会います。このbに対応するのは、b´であり、そこには「神殿」から離れずに生きてきた女預言者アンナが幼子を知って、それを「エルサレムの救いを待ち望む」人々に語りかけます。  cが中心軸となります。ここでは、シメオンが神を「たたえ」、両親を「祝福し」ています。この「たたえる」と「祝福する」は、原語では同じエウロゲオーです。シメオンが神をエウロゲオーし、両親をエウロゲオーすることができるのは、彼の腕に抱かれた幼子こそ神と人間とを結び合わせる救い主だからです。  28節で「抱く」と訳されたギリシア語は、「受ける」を意味する動詞です。この語は、神の国や御言葉を「受け入れる」ことをも表しますから、シメオンがイエスを抱くことは、イエスを「受け入れた」ことを意味しています。シメオンの腕に抱かれている幼子にどのような態度を取るかが、人々の運命を決定します。幼子は人を裁き分ける「剣」なのです。  今日の福音のまとめ  今日は「聖家族」の祝日です。パウロ6世教皇は「聖家族」の日の教会の祈り(読書第二朗読)で、ナザレの模範として、「沈黙」「家庭生活の教訓」「労働の教訓」を挙げています。  沈黙  今日の第二朗読(ヘブライ書11章8・11-12・17-19節)で読まれるのは、アブラハムとサラの信仰の模範で、アブラハムが行き先も知らずに出発したこと(8節)、サラが子をもうける力を得たこと(11節)、アブラハムがイサクを献げたこと(17節)が挙げられています。これらの行為について読み直しますと、アブラハムは神に召し出され、それに従ったから出発し、サラは神が為した(なした)約束を信頼できると考えたから子をもうける力を得、アブラハムは神から試練を受け、それに応えたことになります。つまり、これら模範とされる行為には神との応答関係があることが分かります。特に8節はその典型と言え、「召し出す」「服従する」と訳された言葉は原文では「呼ぶ・名を呼ぶ」「従う・聞く」を意味する動詞が使われます。神がある人に呼びかけ、その人が神の言葉を聴くことに信仰的行為の基盤があります。  マリアとヨセフは、シメオンの言葉を聞いて「驚きます」(33節)。驚きこそ、信仰への出発点であり、シメオンの腕に抱かれた幼子の神秘を悟るための「祈り」の必要と価値を、今日の福音のマリアとヨセフの「沈黙」から学び取りましょう。  家庭生活の教訓  ルカ福音書の1-2章に登場する人物は、ザカリアにせよエリサベトにせよ、またシメオンにせよアンナにせよ、すべて老人であり、その模写も旧約の色彩を色濃く残しています。  ルカがこのような高齢者を登場させたのは、「幼子」と対比させるためであり、旧約時代が終わりを告げ、新約時代の幕が切って落とされたことを印象づけています。  イエスは、旧約のユダヤ教の律法に代わる新約のキリスト者の掟として「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と命じます。  家庭は社会における最少単位の愛の共同体であり、人間が初めて出会う愛の共同体です。家庭における教育がいかに愛をはぐくみ、ほかに代わるものがないということを、社会に対する家庭の絶対的な役割を悟りましょう。  労働の教訓  幼子は「反対を受けるしるしと定められています」(34節)とのシメオンの指摘は、十字架上のイエスの姿に示されています。イエスを受け入れなかった人々は、「反対を受けるしるし」として彼を十字架の上に挙げました。その「反対を受けるしるし」は、マリアの胸に深く刺し込まれた「剣のしるし」(35節)でもありました。しかし、その十字架上のイエスこそ、神と人間を結び合わせる救い主だったのです。  パウロ6世教皇は、聖家族の模範に学ぶ「労働の教訓」を述べます。「労働の尊さをもう一度自覚し、労働それ自体が目的でないこと、労働の自由と尊厳はその経済的な価値からだけではなく、労働が最終的に目指す諸価値からくることを思い出させたいのです」と。  十字架上のイエスの姿は、そのイエスを選ぶかどうか私たちにその思いを明らかにするよう迫ります。社会には「労働」に対する考え方が多くあります。キリスト者として「労働の教訓」に学ぶかどうか私たちにその思いを明らかにするよう迫るのです。                   2020年12月27日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教聖家族 2020年12月27日 沈黙・家庭生活の教訓・労働の教訓 ルカによる福音2章22-40節

お知らせ一覧へ戻る