1/17 年間第2主日ミサ 説教
2021/1/18
聞いて、見て、泊まる(メノー)―年間第2主日B年 ヨハネ・ボスコ 林 大樹 ヨハネによる福音1章35-42節 第一段落(35-39節) 洗礼者ヨハネは、近づいてくるイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と二人の弟子に紹介します(36節)。この表現には次のような解釈があります。 ① イザヤ書53章の、人々に平和と癒し(いやし)をもたらすために人々の罪を背負って死ぬ「苦しむ僕」と結びつける解釈。イザヤ書53章7節では「屠り場(ほふりぼ)に引かれる小羊」にこの僕が譬えられています。 ② 「過越(すぎこし)の小羊」と結びつける解釈。ヨハネ福音書では、イエスの死は過越の小羊が神殿で屠られる(ほふられる)時に起こったとされ、過越の小羊の骨が一本も折られてはならなかったように、イエスの骨も折られなかったとされています(ヨハネ19章36節)。イエスは過越の小羊であり、その死と復活はユダヤ教の過越祭に取って代わる出来事なのです。 ③ 「黙示的小羊」との関連を主張する説。ユダヤ教の黙示文学には、最後の裁きの日に現れ、世の悪を駆逐(くちく)する羊が登場します(十二族長の遺訓ヨセフの19:8など)。これがイエスに当てはめられ、イエスは「神の小羊」と呼ばれました。 これらの解釈にはそれぞれに難点があって、一つの解釈に絞ることは難しいことです。洗礼者ヨハネはこのいずれをも思い起こしながら、イエスを「神の小羊」と呼んだのかも知れません。 弟子たちがイエスに従ったのは、彼らがイエスを見たからではなく、「聞いた」(37節) からです。イエスとの出会いの始まりは「聞く」ことです。聞いて従うことによって、 イエスの泊まっている場所を「見る」(39節)のです。 ヨハネの言葉を聞いてイエスの後を追う彼らを見て、イエスは「何を求めているのか」と尋ねます(38節)。これは挨拶代わりの平凡な言葉ではないかも知れません。「求める」と訳された動詞は、イエスを「見ようとした」(3節)ザアカイと「失われたものを捜して救うために来た」(10節)イエスとの出会いを描くルカ19章1-10節では、傍線部に使われています。とすると、イエスが「何を求めているのか」と尋ねたのは、弟子が何を求めているのか自覚していなければ、イエスとの出会いに救いは生じないからです。 弟子たちはそれに応じて「どこに泊まっておられるのですか」(38節)と尋ねますが、ここで「泊まる」と訳された動詞はメノー(存続する・留まる・滞在する)です。メノーは新約聖書全体で118回使われますが、そのうち40回がヨハネ福音書の用例です。例えば、 イエスが「私のうちにいる(メノー)父」と述べるときはイエスと神との特別な関係を表し、「私はぶどうの木、あなたがたも、私につながって(メノー)いなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15章)と諭すときは、キリスト者とイエスとの深い交わりを表しています。 イエスは二人に「来なさい。そうすれば分かる(直訳では見る)」と言います(39節)。その言葉に従って二人が「見た」ものは、もはや宿泊場所ではなく、イエスが「つながり、留まっている」ところです。それは父である神との交わりそのものです。彼らは、イエスと一緒にそこに「泊まる(メノー)」ことにより、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と証しした イエスがどのような方であるか、身をもって体験したのです。その体験から弟子たちの新しい歩みが始まります。 第二段落(40-42節) この「留まる(メノー)」という体験によって二人は「神の小羊」に出会います。「何を求めているのか」に気づき、それを知った者が、喜びを分かち合うために外へ出て行きます。 アンデレはまず兄弟シモンを捜し(直訳 見つける)、彼は「メシアと出会った」(直訳 メシアを見つけた)と伝え(41節)、彼をイエスのもとに導きます(42節)。シモンもまた、イエスを見て、従ったのではありません。「メシアを見つけた」というアンデレの言葉を聞いて従い、弟子としての新しい歩みが始まります。イエスはシモンを見つめて、彼に「ケファ」、つまりペトロ(岩)という名を与えます(42節)。この改名は、果たすべき新たな使命が当人に与えられたことを表しています。弟子とはイエスに留まり、彼から新たな名前(霊名)を受け、新しい使命が与えられた者なのです。 今日の福音のまとめ 今日は、典礼暦の上では年間第2主日です。「年間」には、途中、四旬節や復活節が入りますが、「年間」最後の主日「王であるキリスト」までの34週は「キリストの神秘全体を追憶するもの」です。その始まりの今日、弟子たちの召命の神秘を追憶します。 今日の福音は二つの段落に分けることができます。第一段落の35-39節では、洗礼者ヨハネの弟子だった二人がイエスのもとに「泊まる(メノー)」までの過程を述べています。38節、39節には「泊まる(メノー)」という語が三回も使われ、キーワードとなっています。この「泊まる(メノー)」の体験こそが、第二段落の40-42節において他の人をイエスのもとに導く原動力となっています。今日の福音には、人がどのようにしてイエスに従う者になるのか(=召命)が描かれています。「聞いて、見て、泊まる(メノー)」ことによって、イエスに従い、イエスを証しする者へと変えられるのです。 アンデレはシモンに「私たちはメシアと出会った」(41節)と告げます。ここでの「私たち」は、時代を越え、現代に生きる私たちもこの「私たち」に重なり、イエスに留まり(メノー)、「メシアと出会った」と外に向かって告げるのです。 2021年1月17日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第2主日 2021年1月17日 聞いて、見て、泊まる(メノー) ヨハネによる福音1章35-42節.do