2/14 年間第6主日ミサ 説教
2021/2/9
病人を癒す(いやす)―年間第6主日B年 ヨハネ・ボスコ 林 大樹 マルコによる福音1章40-45節 癒しの奇跡(40-42節) 重い皮膚病(レプラ)は現代でいう「ハンセン病」だけでなく、治療がきわめて困難なその他の皮膚病をも含んでいる言葉です。レビ記13章の規定によれば、重い皮膚病の者は町の外に独りで住まねばならず、歩くときも「私は汚れた者です。汚れた者です」と叫ばねばなりません(レビ記13章45-46節)。しかし、ここに登場する人は、その律法の規定を犯して、イエスのもとに来てひざまずきます(40節)。 重い皮膚病にかかった人の苦しみは、単に肉体的苦痛だけではありません。人々から切り離される、共同体から追放される、という苦しみがありました。さらに「汚れている」というのは、神からも遠く隔てられていることを意味していました。誰も彼に近寄ってはならないし、彼が誰かに近寄ることも許されていません。しかし、この人は希望をもってイエスに近づいていきます。 この人とイエスのやりとりは単純です。「御心ならば、私を清くすることがおできになります」(40節)「よろしい。清くなれ」(41節)と言うのですが、これは直訳ではこうなります。 「あなたが望むなら、あなたは私を清くすることができます」。 「私は望む。清くなれ」。 このやりとりの中に、病人のひたむきな思いと、それをしっかりと受け止めるイエスの姿を感じられます。 「深く憐れんで」(41節)は、ギリシア語では「スプランクニゼスタイ」という動詞です。もともと「はらわた」を意味する「スプランクナ」という名詞を動詞化した言葉で、目の前の人の痛みを見てはらわたがゆさぶられる、自分も同じ痛みを感じるということを意味します。ここには深い共感が表されています。 しかし、写本によっては「怒って(いかって)」と書いてあるものもあります。こちらの方が本来の形だ、という聖書学者もいます。「怒り(いかり)」だとすれば、この人を苦しめている悪霊に対する怒りということになります。 イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」ます(41節)。この場合、それは律法を無視した行為です。しかし、イエスにとって、この人は汚れた人間、つまり神からも人からも隔離されなければならない人間ではありません。この人も神から愛されている人間です。「触れる」というのは、この人の重荷を自分に引き受けていく行為だともいえます。 沈黙を厳しく求めるイエス(43-44節) イエスは彼が治癒(ちゆ)したこと、清くされたことを人々に証明することを命じます(44節)。レビ記14章には、重い皮膚病が治った人が祭司によって治っていると認められたときの手続きが述べられています。この律法では雄羊(おひつじ)二匹と雌羊(めひつじ)一匹、その他様々な献げ物をすることになっています。律法の規定どおり献げ物をささげなければ、彼は社会復帰をすることができません。 「誰にも、何も話さないように気をつけなさい」とイエスは彼に沈黙を求めます(44節)。このイエスが沈黙を求めるというテーマは、マルコ福音書の中で繰り返されます。マルコはイエスの様々な癒しの業を伝えますが、その点からイエスを理解するのは不十分だと考えています。マルコにとって、イエスを本当に知るのは十字架上の死と復活に至るイエスの生涯全体を見たときなのです。 イエスの孤独(45節) しかし、彼はイエスの命令に反して、この癒しの出来事(=奇跡)を言い広めます。 一見、福音が告げ知らされているかに見えますが、この癒しの出来事(=奇跡)に沸き立つ町にイエスは入りません。そこにうず巻く興奮は、イエスの使命に対する不十分の理解から生じていると知っているからです。だから「町の外の人のいない所」にいます。それでも、イエスを求める人々が彼のもとに押し寄せて来ます。イエスは神の国の到来を知らせるために奇跡を行います。だが、奇跡を行えば、誤解も広がります。孤独な思いをイエスは噛み締めて(かみしめて)いたかも知れません。 今日の福音のまとめ イエスの「清くなれ」(41節)の一言で病気が癒され、清められた病人は喜びに心をはずませたことと思います。しかし、喜びで有頂天になっている彼にイエスは厳しく注意しました。「誰にも、何も話さないように」と(44節)。イエスはただ「奇跡を行う人」と思われることを避けたのです。イエスの使命を理解するためにはまだまだ時間がかかります。 イエスの根本的な使命は「そこでも、私は宣教する。そのために私は出て来たのである」ということでした(マルコ1章38節)。イエスにとって大切なのは、「神の国の到来を告げる」ことです。マルコ福音書では、いつもこの神の国のメッセージと病気の癒しの出来事(=奇跡)がつながっています。イエスの呼びかけは人々の中に確かに何かを引き起こしていきます。打ち捨てられ、あきらめと絶望の中にあった人々にイエスが近づき、触れていくことを通して、その人たちは内面的に変えられていきます。 イエスは病人を捜し出してできるだけ多くの人を癒そうとはしていません。イエスにとって癒しとは、たまたま出会った目の前の人の苦しみに深く憐れむ(=共感する)ところから沸き起こるものだったのです。 2021年2月14日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教年間第6主日 2021年2月14日 病人を癒す マルコによる福音1章40-45節