3/21 四旬節第5主日ミサ 説教

2021/3/16

          イエスに従う―四旬節第5主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   ヨハネによる福音12章20-33節  異邦人の到来(20-22節)  今日の福音は、「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」(20節)ことを告げます。彼らは、ユダヤ教に改宗した異邦人を指し、過越の祭りに上京したのでしょう。それだけのことなら別に問題はないのですが、この人たちがフィリポのもとに来て、「イエスにお目にかかりたいのです」(21節)と願い出たことによって、重要な意味を持つ出来事になりました。フィリポは同じ「ベトサイダ出身」であるアンデレと相談して、二人でイエスのもとに行ってギリシア人たちの願いを話します(22節)。ここにおけるヨハネ福音書の関心は、このギリシア人たちがイエスに会ったかどうかよりも、彼らの願いをイエスに話した事実に向けられています。  宣教はイエス→弟子たち→異邦人という流れで行われますが、ここでは逆に、異邦人→弟子たち→イエスと遡る(さかのぼる)ことによって、宣教を開始すべき「時」が到来したことが示されます。宣教のためには、使信となる救いの出来事がどのような姿を取るのかを示されなければなりません。23節以下でその救いの出来事がどのような出来事であるかが示されます。  イエスの言葉(23-28節a)  この段落は「時」と「栄光を現す」によって対応する23節と27-28節aの間に弟子への勧めを語る24-26節がはさみ込まれています。  栄光の時が来ました(23節)。  しかし、この栄光は多くの実を結ぶための死ぬという栄光です(24節)。25節は弟子への呼びかけです。弟子の前には、自分の命(直訳 魂〔たましい〕)を「愛する」道と、それを「憎む」道が置かれています。しかし、魂を愛する者はかえってそれを失い、それを憎む者がそれを獲得します。「魂を愛する」とは命を自分のために使う生き方です。だから、「憎む」といっても生命を粗末(そまつ)に扱うことではありません。与えられた時間を「永遠の命(=神の国)」のために使うことを意味しています。26節はイエスに従う者に与えられる約束が述べられています。イエスに従い、自己を捨てて彼に仕える者は、イエスの「いるところに」いることになるだけでなく、父に尊ばれることになります。  27-28節aは23節の「時」と「栄光を現す」によって対応しています。この時はイエスの魂が乱され、父に「救ってください」と願いたくなる十字架の「時」ですが、「この時のために来たのだ」と自覚するイエスは、救いを求めずに「御名の栄光を現してください」と神に祈ります。「栄光」はここでは誉れ・輝きですが、そのものの「素晴らしさ」をも意味します。  神の応答(28節b)  この段落では「栄光を現す」が過去形と未来形で表しています。十字架に至るまで、神はイエスを通してその素晴らしさ(栄光)を現してきましたが(過去形)、私たちが十字架の道を歩む「この今の時」では、イエスの死がもたらす実りを世の人々に示すことによって、その素晴らしさ(栄光)を現されることになります(未来形)。  群衆の反応とイエスの説明(29-33節)  「栄光を現す」という「天から」の声(28節b)を完全には理解できない群衆に(29節)、イエスにその真意を説き聞かせます(30-32節)。  今日の福音のまとめ  第一朗読は「新しい契約」の預言です。預言者の使命は神と民との間に立って、神に執り成すことにあります。しかし民は、エレミヤの言葉を神の言葉として受け入れず、むしろエレミヤを苦しめ、彼の目を覚ますことこそ神に仕える道だと思い込みました。  このようなエレミヤですから、「新しい契約」も人間の罪に対する失望に根差しています。エレミヤによれば、旧約の律法を実行できるとすれば、神が深く介入する時(恵みの時)です。人間には自力で律法を行う力はありません。従って、「新しい契約」の新しさは、与えられる律法の新しさではなく、与えられ方の新しさです。シナイ契約は律法が石の板に書かれましたが、新しい契約では人間の心にじかに書き込まれます(エレミヤ書31章33節)。  人間は罪の中に生きています。ここでの罪は決まりを破るといった単純な罪ではなく、無意識のうちに神の教えを人間の思いにすり替えて、神に従っていると思い込むという、人間の根本に巣くう罪のことです。だからこそ、イエスは新しい契約の実現のために苦しみます。  第二朗読では、人間の(旧約の)大祭司が「(罪のために)供え物やいけにえをささげる」(ヘブライ書5章1節)と、キリストが「祈りと願いをささげる」(7節)とが対比されています。対比から考えると、キリストがささげた祈りは、自分自身をささげることを指しています。この祈りが「聞き入れられた」(7節)ということは、イエスのささげるいけにえ(=イエスの十字架上の死)が神に受け入れられたことを意味します。  これは神の栄光の現れともなります。イエスは「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光(素晴らしさ)を現してください」(ヨハネ12章27-28節a)と祈り求めます。人間が人間を救うことができるなら、十字架は無用となります。私たちもイエスの呼びかけに応えて、それに従い、永遠の命(神の国)に至る道を歩むためには(25-26節)、人間が人間を完全には救えないと認めることから始まるのです。                    2021年3月21日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教四旬節第5主日 2021年3月21日 イエスに従う ヨハネによる福音12章20-33節

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