麦穂8月号巻頭言 蝉の思い出 主任司祭 細井保路
2021/8/6
蝉の思い出 細井保路(ほそいやすみち) 子どもの頃の夏休みは、セミを捕るのに夢中でした。竿の先に針金で小さな輪を作り、そこになるべく粘度の高い蜘蛛の巣を巻きつければセミを捕る道具は完成です。これで高いところのセミもキャッチできるのです。 昆虫図鑑を見るのも好きでした。図鑑で見知った見慣れない蝶やトンボを捕まえるのが楽しみでした。まだ昆虫採集が問題視される以前のことです。セミのページにも、見慣れないセミの絵が描かれていました。クマゼミです。よく捕まえるアブラゼミやミンミンゼミより、さらに大きく堂々として見えました。憧れのセミでしたが、とうとう見つけることはできませんでした。30年以上前のことになりますが、静岡の清水に赴任したとき、シャーシャーというクマゼミの蝉時雨に驚きました。しかも教会の庭の木や併設の保育園の遊具にまでとまっていて、手でつかめるほどの近さで鳴いているのです。あんなに憧れていた幻のセミがそこらじゅうにいるので、なんだか拍子抜けしてしまいました。その後、クマゼミの分布はだんだん東へ広がってきて、いまでは、当教会の裏庭でも時折クマゼミが鳴いています。 20年ほど前に、8月に広島を訪れました。平和記公園へ向かう道すがら、ずっとセミの声が聞こえていました。原爆が投下された日も、セミは激しく鳴いていたはずです。そして、そのセミの声が一瞬にして聞こえなくなったのだということに思い当たりました。セミの声が止んでしまった世界を思いながら歩き続けました。相変わらず街中にセミの声は溢れていましたが、私の心の中には寒々とした沈黙がありました。原爆の悲惨さ、戦争の愚かさを、蝉時雨が止むというような詩的なイメージに置き換えてしまってはならないのかもしれません。でも、8月に広島の地で蝉時雨を聞いた私の体験は、平和を願うための大切な体験となりました。それ以来、夏のセミの声は、子どもの頃を思い出させるだけではなく、平和を祈る契機にもなっているのです。 原稿を書き始めたら、立秋を待たずに草むらで虫が鳴き始めました。蝉時雨に限らず、自然環境に少し心を寄せれば、平和について、さらにいのちの尊さについて、深く考え祈る糸口がたくさんあるはずです。