7/12 年間第15主日ミサ 説教

2020/7/10

        悟ることが許されている-年間第15主日A年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音13章1-23節  種を蒔く人の譬え(1-9節)  1節の「家を出て」は、3節bの種を蒔く人が「出て行った」と同じ語です。マタイにとって「出て行った」イエスこそが種を蒔く人と理解していたと見ることができます。  パレスチナの農民は11月中旬から1月初めにかけて、まず大麦、次に小麦を蒔きました。当時は農業技術が発達していず、手で畑一面に蒔き散らし、そのあとで耕して種に土をかぶせました。したがって無駄になる種が多く、種に対する収穫比は当然かなり低かったのです。  「種を蒔く人の譬えの説明」(18-23節)は初代教会の宣教の中から生み出されているので、「種を蒔く人の譬え」(3-9節)はこの「説明」とはひとまず切り離して理解されねばなりません。譬話の原意は、農夫の蒔く種のすべてが結実するのではなく、無駄になるのが多くても最後には豊かな収穫が与えられたように、天の国も、初めは見込みがなさそうに思えて人の目には失敗や後退と見えることがあっても、最後には必ず圧倒的な成果を伴って出現する、ということです。それはイエスの終末論的な確信に裏打ちされた譬えです。  天の国が到来するという宣教は、すでに始められました。その実現までには徒労と思える過程がありますが、しかし、すばらしい終末の実りが約束されています。したがって、「種を蒔く人の譬え」における比較のポイントは、無駄になったいくつかの種と確実にやって来る最後の収穫であって、四通りの種の運命ではありません。  譬えを用いて話す理由(10-17節)  「譬え」(パラボレー)とは、ヘブライ語「マーシャール」に遡り(さかのぼり)ます。この語は、「比喩(ひゆ)、格言(かくげん)、諺(ことわざ)、寓喩(ぐうゆ)」などを意味し、さらに「謎(なぞ)」の意味を持ちます。したがって、イエスの譬話は、これを聞いて理解する者には天の国の秘密が開示される道ですが、他方、理解できない者にとっては、譬えは謎(なぞ)でしかないという二重性を持ちます。  弟子たちは「なぜ、あの人たちには譬え(謎)を用いてお話しになるのですか」と尋ねます(10節)。イエスの答えは「天の国の秘密を悟ることが許されていない」からです。「持っていない」から、「取り上げられる」から、「見ず、聞かず、理解できない」から、イエスの譬えは「謎(なぞ)」になるとマタイは繰り返します(11-13節)。  種を蒔く人の譬えの説明(18-23節)  19節bの「心の中に蒔かれたもの」の「蒔かれたもの」とは、中性形で、4・5・7・8節と同じ「種」を指しています。しかし、19節cの「道端に蒔かれたもの」の「蒔かれたもの」とは、男性形で、種を蒔かれた人を指しています。20・22・23節の「蒔かれたもの」も同じです。3-9節の「譬え」では様々な種の運命に焦点を当てられているのに対して、18-23節では、種(御言葉)そのものではなく、種(御言葉)を蒔かれた人の側の運命に焦点が移されています。このような理由から、18-23節は、イエスの「譬え」を教会生活上の戒めとするために、初代教会が行った再解釈であると考えられています。  今日の福音のまとめ  3-9節の譬話の原意は、たゆまぬ宣教を促しています。農夫が途中で失望したりあきらめたりしないように、豊かな収穫を信じてあきらめずに宣教するようにと、弟子たちを励ましています。最後の収穫量が、マルコとは逆の順で、100-60-30倍となっているのは、マタイが直弟子時代の宣教を高く評価し、それを理想化したためです。  18-23節の譬話の説明は、初代教会の解釈で、教会内に多様な信徒がおり、そのすべてが豊かな実を結ぶのではないという現実認識と、それに基づく反省です。  イエスは「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」と言います(11節)。「悟る」の旧約聖書の背景は、例えば、「あなたの律法を理解させ、保たせてください。私は心を尽くしてそれを守ります」(詩編119・24)です。ここでは「理解」という用語は、知的に認識することではなくて、人の最奥の自己をも包みこんで道徳的に献身することに言及しています。つまり、このような理解とは、人間の知的な能力をはるかに越えているために、神の賜物と見なさざるを得ないのです。したがって、マタイにとっては、「悟ることが(神に)許されている」人々のことです。  悟ることを許されていない「あの人たち」とは、誰のことでしょう。第一は、イエスの福音を受け入れなかったユダヤ人たち、特にファリサイ派の人々です。第二は、マタイの教会内の、天の国の秘密を悟らない人々です。  18-23節の譬話の説明で四通りの種になぞられる人々は、いずれもイエスの御言葉を「心の中に蒔かれたもの」として「聞いた」のです。つまり、種を正しく育て得なかった人々も、初めからイエスの御言葉を拒否したのではありません。したがって、彼らも宣教によって一度は教会に入った者です。彼らは「悟らない」ゆえに不適格者となり、信仰から脱落する者となりました。マタイは、彼らの脱落の原因(思慮のなさ、一時的情熱、迫害、財産への心配など)を指摘します。  このことはマタイの教会が置かれていた困難な状況を推定させます。すなわち一方では、迫害はますます激しくなり(5章11節、24章9節)、他方では、教会内には福音宣教のために献身することを厭う(いとう)者も多かったことを思わせます。  御言葉を「聞いた」者(=私たちも含まれます)が「悟らない」なら、イエスは私たちに献身するために、もう一度、十字架に上がらねばならなくなるでしょう。                    2020年7月12日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第15主日  2020年7月12日 悟ることが許されている マタイによる福音13章1-23節

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