8/23 年間第21主日ミサ 説教
2020/8/21
生ける神の子―年間第21主日A年 ヨハネ・ボスコ 林 大樹 マタイによる福音16章13-20節 人の子のことを何者だと言っているか(13-16節) 13節 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14節 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。15節 イエスが言われた。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。16節 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた(マタイ16章13-16節)。 27節 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」と言われた。28節 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。29節 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたは、メシアです」(マルコ8章27-29節)。 マタイはマルコよりもイエスに集中するために、「弟子たちと」と「方々の村に」という表現を省き、一つの文章にしています。しかもマタイでは、イエスは自分を「私のことを何者だと言っているか」とは言わず、「人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねています。 「人の子」という表現は、イエスが自分を指すときに用いる呼称です。黙示文学では、終わりの日に雲に乗って現れる天からの特別な存在を指して「人の子」と呼んでいます。マタイは、「イエスは人の子」であると同時に「天からの特別な人物」であることを強調します。しかし、イエスは黙示文学での世俗的な勝利者としての「人の子」ではなく、この世からいったん捨てられ、殺された後に栄光を受け、人々を救う「人の子」です。このようにしてイエスに集中することによって、イエスが誰であるかをはっきり主張しようとしています。 このような強調は16節にも現れています。マルコはペトロの告白は「あなたは、メシアです」と答えるに過ぎません。しかし、マタイでは「メシア(キリスト)」だけでなく、「生ける神の子」という表現が加えられています。神が「生きている」というのは、旧約以来の伝統的な信仰表現です(イザヤ書37章4節、17節、ホセア書2章1節、ダニエル書6章21節など)。これは、神は命の根源でありその創造者であるという確信に他なりません。16節の「生ける」も「子」ではなく「神」にかかる語ですが、マタイが「生ける」を特にここで用いるのは、イエスは神の力によって死を克服して復活したのだという教会の復活信仰を投影し、これに織り込んでいると理解することができます。 またマルコには人々のイエスに対する見方の中に「エレミヤ」は現されませんが、マタイはこれを加えています。Ⅱマカバイ記2章1-12節によれば、エレミヤは神の契約の箱をネボ山(かつてモーセがのぼった)に隠しており、メシアが現れる直前にそれを取り出し、イスラエルに栄光をもたらすとされていました。この伝説を背景にして、ここにはイエスによって結ばれる新しい契約(マタイ26章28節、エレミヤ書31章31-34節)につながるイメージを描いているのかも知れません。 私の教会を建てる(17-19節) 「あなたはメシア、生ける神の子」(16節)と信仰告白をしたペトロを土台とし、イエスは「私の教会(エクレシア)」を建てます(18節)。日本語に「教会」と訳されたギリシア語の「エクレシア」は、本来「呼び集められた人々」「集会」の意味を持つ語で、旧約聖書中で、神の民イスラエルが礼拝などのために集うとき、その集まった人々を指すヘブライ語の「カハル(使徒言行録7章38節 モーセは『荒れ野の集会』にいたと言われています)」のギリシア語訳です。だから、神の「教会」とは「呼び集められた新しい神の民」であり、「神の呼びかけ」に「応答(=信仰告白16節)」する人々の集会であると言えます。 イエスはペトロに天の国の鍵を与えます(19節)。「陰府(よみ)の力」(18節)とは、死や悪の力を表します。「つなぐ・解く」(19節)は、「つなぐ」は「禁じる」、「解く」は「許す」を意味します。イエスの言葉と教えを解釈し、信者の具体的な生活にそれを当てはめる際の決定権をペトロは弟子の代表としてイエスから委託されたのです。 誰にも話さないように(20節) 弟子たちはイエスから沈黙を指示されます。イエスがメシアであることは復活のときまで伏せられなければなりません。 今日の福音のまとめ イエスを「あなたはメシア、生ける神の子」(16節)と告白する信仰は、「人間ではなく、神が現した」ものです(17節)。信仰告白とは、神の呼びかけに対する人間の応答です。「教会(エクレシア)」とは、「呼び集められた新しい神の民」であり、弟子は神の呼びかけに答えた者として「教会」になります。 「生ける神の子」は、復活顕現を基盤として成立します。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)。イエスは十字架に死に、復活する「生ける神の子」です。「教会」はイエスの復活の証人として告白し、働くことによって具現化されるのです。 2020年8月23日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第21主日 2020年8月23日 生ける神の子 マタイによる福音16章13-20節