12/6 待降節第2主日ミサ 説教

2020/12/1

    神の子イエス・キリストの福音の初め―待降節第2主日B年                               ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マルコによる福音1章1-8節  表題(1節)  「神の子」と「キリスト」という言葉が、マルコ福音書を読むキーワードだと考えると面白いことに気がつきます。はっきりとした形で、人がそういう方だと認める箇所があるからです。一つはマルコ8章29節です。ここでは弟子のペトロが「あなたはメシア(=キリスト)です」と言います。ガリラヤ地方でイエスがした様々なことを身近に見てきたペトロが、弟子たちを代表してこのように言います。そして、この直後にイエスは初めて弟子たちに向かって自分の最期について話し始めます。つまり、自分が死んで復活することになっている、と語り始めるのです。もう一つの「神の子」は福音書の終わりのほうに出てきます。イエスの処刑に立ち会った百人隊長が、その死のありさまを見て、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15章39節)と言います。このように、マルコ福音書全体を、第8章の中頃で、大きく前半と後半に分けて考えることができます。そして、前半はイエスのガリラヤでの活動の様子、後半は十字架に向かうイエスの姿を描いています。  「福音」という日本語は、ギリシア語の「エウアンゲリオン」を訳した中国語の翻訳から来ています。「エウ」は「良い」という意味です。「アンゲリオン」は「知らせ」です。したがって、「エウアンゲリオン」は「良い知らせ」ということになります。  神の言葉(2-3節)  2-3節は旧約聖書からの複合引用です。2節前半は出エジプト記23章20節の七十人訳、後半はマラキ書3章1節を自由に引用し、3節はイザヤ書40章3節=七十人訳からの引用です。この引用には「わたし」と「あなた」と「使者」の三人の人物が登場します(2節)。「わたし」は神であり、「あなた」は1節の「神の子イエス・キリスト」であり、「使者」は洗礼者ヨハネのことです。  こうして、2-3節は天上の神がイエスに語りかけた言葉であり、4-8節は地上の描写になります。天上の神は、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れたことをイエスに示し、行動の時が来たことを告げます。「福音の初め」には神の言葉があります。神の完全な主導のもとに出来事が開始されます。  洗礼者ヨハネの活動(4-5節)  神の言葉に呼応して活動を起こした洗礼者ヨハネ(4節)に応じて、人々が行動を起こし(5節)、主の道を整えます(3節)。ここでは、マルコは人々の心理状態を一言も述べず行動だけを淡々と模写します。すべてを引き起こすのは神の言葉であり、そこに注意を集中させようとしています。  洗礼者ヨハネの風貌(6節)  「らくだの毛衣」はベトウィンの服です。「革の帯」も荒れ野の生活者にふさわしい服装です。しかしこの服装は預言者エリヤを思い起こさせます(列王記下1章8節)。  預言者エリヤは、終わりの日に先立って再来する特別な預言者だと信じられていました(マラキ書3章1節、3章23節)。待ち望んだ預言者エリヤはすでに再来し、決定的な時はすぐそこに迫っています。  洗礼者ヨハネの言葉(7-8節)  神の言葉(2-3節)に呼応した洗礼者ヨハネが、自分はメシアではなく、メシアの到来を準備する先駆者(せんくしゃ)にすぎないと公言します(7節)。  それは洗礼の違いからも明らかです。洗礼者ヨハネによる水の洗礼とイエスによる聖霊の洗礼―聖霊の授与を伴う、イエスの名による教会の洗礼(使徒言行録19章1-7節、Ⅰコリント書12章13節)―との違いを対照的に語ります(8節)。  今日の福音のまとめ  今日の福音はマルコ福音書の冒頭の部分です。マルコはマタイやルカと違って、イエスの系図や誕生物語を書くことなく、洗礼者ヨハネの証言から始めています。マルコはイエスの伝記ではなく、「神の子イエス・キリストの福音」を書こうとしています。ですから、伝記作家だったら興味を抱く、主人公の誕生や成長に関する記事は書きません。しかも、イエスの十字架と復活に焦点を絞るパウロの福音理解と違って、イエスにまつわる様々な出来事を報告しています。病気に代表される悪の力や、人間を抑圧するものから人を解放する出来事にもイエスの福音が光っているからです。  マルコは「福音の初め」と言います。もちろん、このすぐ後に続く出来事がこの福音の最初の出来事だ、という意味にもとれますが、「マルコによる福音」全体が「福音の初め」なのではないかと読み取ることもできます。マルコにとってこの福音は過去のことではなく、今も自分たちの中で日々起こっていることだったのです。その出発点、それがイエスにまつわる様々な出来事であり、十字架で終わりを迎えたイエスの生涯だったのだ、そういう見方で、マルコはこの福音書全体を「福音の初め」と言っているのではないかと考えられます。  待降節の過ごし方のキーワードとして「目を覚ましていなさい」があります(マルコ13章35・37節)。この語は、出来事の中に神の言葉を聴く(見る)心の注意深さを表しています。悪の力や、人間を抑圧するものから人を解放する二千年前のイエスの言葉や出来事が今もどこかで生きているのではないか、注意深く聴いて(見て)待降節を過ごしましょう。                    2020年12月6日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教待降節第2主日 2020年12月6日 神の子イエス・キリストの福音の初め マルコによる福音1章1-8

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