麦穂2月号巻頭言 すばらしいことは私から始まる 主任司祭 細井保路
2022/2/10
すばらしいことは私から始まる 細井保路(ほそいやすみち) 先月の23日、年間第3主日の福音朗読はルカ福音書4章でした。もう一度それを読み返してみましょう。 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳のしたとき、実現した」と話し始められた。 「救いの日に、人々は苦しみから解放される」というテーマは、イザヤ預言書の中で繰り返し語られます。そして特にこの61章では、「わたしがそのために選ばれた」と言っているのです。単純に考えれば、この預言書の「わたし」はイエスさまを指しているのだということになります。確かに、神さまの深いあわれみは、イエスさまが登場することによって私たちに見えるものになったのです。しかし、「この言葉は、今日実現した」というイエスさまの宣言は、「やっと預言が現実になりますよ」ということではなくて、「これを聞いているあなたが当事者ですよ」という宣言なのです。 旧約聖書の言葉は、イエスさまの時代の人たちにとっても、遠い昔の話、いつ訪れるかわからない救いの話、神さまに任せるしかない事柄であって、誰も自分のところから始まるとは思っていません。でも本当は、「救い」とは、ひとごとではなくて、すべての人の幸せを望まれる神さまのみ旨に気がついた人のところから始まるのです。ですから、神のみ旨を体現しているイエスさまのところから始まっているのはもちろんのこと、私たちからも始まるのです。神のみ旨にかなったこと、つまり「よいこと」は常に私から始まるのです。むしろ、私からしか始まらないのです。「よいこと、すばらしいことは私から始まる」という確信をもって前進しましょう。