麦穂3月号巻頭言 神さまに出会う 主任司祭 細井保路

2023/3/7

                                        神さまに出会う                              細井保路(ほそいやすみち)  3月5日のミサで、イエスさまのご変容の箇所(マタイ福音書17・1~7)が朗読されました。いつものイエスさまとは様子が変わったというのです。それを3つのことで表現しています。お姿が輝いて見えたこと。モーセとエリヤとが現れて、語り合っておられたこと。「わたしの愛する子」という声が聞こえたこと。  イエスさまがモーセやエリヤと語り合っていたという表現から、大事なことに気づきます。福音書を読んでいるときの私たちは、「イエスさまと語り合っている」のです。過去のイエスさまのことばに触発されて、今の私ことを考えて受け入れ、すべてが神さまから始まっていて、神さまに生かされていることを感じとることができるのです。つまり、イエスさまが、「モーセとエリヤと語り合っていた」という表現は、イスラエルの歴史や思想や信仰のすべてが、神さまから出て、目の前のイエスさまを生かしているということを弟子たちが感じとったということなのです。一人の人が、本当に謙虚に自分を無にして立っているなら、私たちは、その人が、自分の力ではなく、歴史や社会や環境や自然のすべてに支えられて存在していることに気づかされます。すべての人の救いのためにご自分を無にする覚悟をなさっていたイエスさまの内に、神さまの働きかけが感じ取れたのです。そしてその究極の働きかけは、神さまが私たちを愛してくださっているというメッセージとして現れるのです。  イエスさまがご自分の存在を私たちのために捧げてくださっているからこそ、神のいのちの働きが感じ取れるのです。  しかし、この幸せな出会いには、もう一つの条件がありました。ご変容の出来事の前に、イエスさまはご自分の死を語りだします。イエスさまについて行けば大丈夫と思っていた弟子たちは、少しがっかりし、不安になったことでしょう。でも、そのおかげで、自分たちに都合のよい、頼り甲斐のあるイエス像ではなくて、神のいのちを体現しているイエスさまに出会うことができたのです。そのことを忘れてはいけません。  私たちは、人に出会うとき、見下したり、過剰に期待したり、武装したりして、神のいのちを生きている本当のその人の姿を見失うことが多いのです。勝手なレッテルを貼らずに人に接するとき、その人の本当の姿に出会うだけでなく、その人を生かしている神さまにも出会うはずなのです。

お知らせ一覧へ戻る