麦穂4月号巻頭言 春を迎えて 主任司祭 細井保路
2024/4/8
春を迎えて 細井保路(ほそいやすみち) 4月7日、去年より一週間遅れて桜が満開になりました。夜中の雨も上がり、気温もぐんぐん上がって、ミサの後、教会学校の子どもたちは、近くの称名寺の桜を見にでかけました。教会委員会が終わってから私も子どもたちの後を追いかけましたが、ちょうど帰ってくるところに遭遇しました。ゆっくり桜を眺めることができなかったので、夜になってからもう一度お寺を訪ねました。8時ごろに「金沢文庫」側のトンネルを抜けて池のほとりに出ると、見物客は誰もいませんでした。しんと静まりかえった境内で夜桜を眺めていると、お寺の方が出て来て、桜の時期は7時で門を閉めるとのことでした。遅くまで騒がないようにということなのでしょう。 何故花見がしたくなるのかは、自分でも理由がよくわかりませんが、春の陽気と満開の桜の木は、確かに気持ちを浮き立たせてくれます。桜の名所は全国津々浦々にあり、行ってみたいところはたくさんあります。でも、とりあえずは近くに称名寺があることを感謝しなければと思います。さらに言えば、教会の庭の小さな桜の木でも十分春を満喫することができます。 桜を眺めるときに思い出す西行の歌があります。 「山櫻枝きる風のなごりなく 花をさながらわがものにする」(山家集上 春) 枝を揺らした風が止んで、はらはらと散る花びらを浴びながら静けさの中に佇む西行の姿が浮かんできます。私たちは浮かれ気分で花見に行くのだけれど、実際に桜の木の下に立つとちょっと神妙な気持ちになるのは不思議なものです。桜の枝を揺らす風は、聖霊の息吹を連想させるからかもしれません。桜の下にいる私にも風は吹きつけ、私は花に包まれたようになります。それはちょうど、神のいのちに包まれているという感覚に似ています。 もう一つ好きな歌があります。 「山櫻咲きぬとききて見にゆかん 人を争ふこころとどめて」(山家集下 花) 西行も若いころは、先を争って、咲き始めた花を見つけにいくようなことをしていたのでしょうが、歳をとれば、「咲きましたよ」と言われてから見に行けばいいという心境を歌ったのだと思います。桜を愛でることこそが目的であって、誰よりも先に情報を得たとか、誰よりもいい場所を知っているとかいうことは、どうでもいいことのはずなのです。私たちの信仰についても同じことが言えそうです。