4/19復活節第2主日ミサの福音 説教
2020/4/16
見ないのに信じる人は幸いである―復活節第2主日A年 新型コロナウイルスの感染拡大阻止のため、緊急事態宣言、外出自粛要請が出され、4月13日(月)~5月6日(木)まで、公開ミサを中止しています。主任司祭は、この期間、未公開ミサをささげますので、信徒の皆様は家で司祭と心を合わせてお祈りください。 ヨハネ・ボスコ 林 大樹 ヨハネによる福音20章19-31節 イエス、弟子たちに現れる(19-23節) 「ユダヤ人を恐れて」(19節)という言葉は、弟子たちはイエスの遺体を盗んだと疑われることを恐れていたようです(マタイ28章13節)。当時、死体を盗み出した者は厳しく罰せられていたので、弟子たちは恐れて閉じこもっていた、と読むことができます。 また、マグダラのマリアが既にイエスの復活を弟子たちに告げています(18節)。弟子たちはそのことを耳にしていることを前提にすると、イエスが現れれば、彼らの裏切りが指摘され、イエスを見捨て、見殺しにした彼らの罪が裁かれ、断罪されざるを得ません。こういうことを恐れていたということも考えることができます。彼らは家の戸を閉ざしていましたが(19節)、言い換えれば、自分の罪の世界、裁きと死の支配、暗黒の支配の中に自らをがんじがらめに閉じ込めていた、と内面化することもできなくはありません。 このような状況の中で「イエスが来て真ん中に立ち」弟子たちに言葉をかけます。そして、「あなたがたに平和があるように」とイエスは語ります(19節)。この挨拶(あいさつ)は、イエスが最後の晩さんの席上で、弟子たちに約束した「平和」です(14章27節)。当時の人々は互いに「平和があるように(シャローム)」と挨拶し合いましたが、ここでは単なる挨拶以上の意味を持っています。イエスがここで「平和があるように」と言われたことは、まさにイエスを見捨て、見殺しにした罪におののいている弟子たちに、彼らに「なお神が共にいてくださいます」と宣言していることになります。この宣言をイエスから受けたとき、弟子たちは自分たちのような者が、罪人をも赦す神の愛によって赦されたということを受け入れ、信じたのです。また、イエスが彼らの罪のあがないとなって十字架で死んだということも、同時に示され、弟子たちはこれも受け入れました。だから、この「平和」は、単に心の安らぎだけではなく、弟子たちが世に勝つことの保証でもあるのです。「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(16章33節)。 イエスは「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言います(21節)。そして、弟子たちに「息を吹きかけて『聖霊を受けなさい。┅┅あなたがたが罪を赦せばその罪が赦され┅┅あなたがたが赦さなければ赦さないまま残る』と言います(22-23節)。 「息」は弟子たちを新しく創造する「命の息」です(創世記2章7節)。復活したイエスは今や新しい人間の造り主です。使徒派遣は、イエスが彼らに聖霊を授けることによって行われます。使徒たちは聖霊に導かれて使徒職を果たすばかりでなく、使徒職そのものも、その基礎を聖霊におくのです。(ヨハネ福音書における「聖霊降臨」とも言われています)。 「あなたがたが罪を赦せばその罪が赦され、あなたがたが赦さなければ赦されないまま残る」は、使徒たちが聖霊の力によって宣べ伝える福音は、それを信じて受け入れる人々には罪の赦しを得させ、それを拒否する人々には赦しが拒否されます。 イエスとトマス(24-29節) イエスが最初に「来られた」とき「一緒にいなかった」トマスは、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と証しするのを信じることができず、復活が事実であることの確証を求めます(24-25節)。 八日後(つまり一週間後)に、トマスを含む弟子たちにイエスは再び現れ、弟子たちの「真ん中に立ちます」(26節)。イエスはトマスに語りかけ、手で触れて確認するようにと招きますが、トマスはもはや触れて確かめようとはせずに、「私の主、私の神よ」と告白します(27-28節)。それに答えて、イエスは「見ないのに信じる人は幸いである」と戒めます(29節)。 この言葉は後代のキリスト者を励ます言葉になります。私たちは肉の目でイエスを見ることはできませんが、証しを信じて受け入れるなら、「幸い」な人とされます。 今日の福音のまとめ ヨハネは「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と、福音書の目的を記します(31節)。福音書のキーワードは「イエス」、「信じる」、「命」の三語です。福音書の著者は言います。「この書の執筆目的は、読者がイエスを信じて、命を得ることだ」。 イエスは「私は命のパンである」と言います(6章48節)。「命」という語は「この世の命」と「神の次元での命」という二重の意味があります。永遠の命と言う場合も、「信じる者は永遠の命を得ている」(6章47節)とあるように、その命はすでに今得られているもの、始まっているものなのです。 イエスは、「私が命のパンである。私のもとに来る(「信じる」の意)者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6章35節)、「┅┅私を食べる者も私によって生きる」(6章57節)と言います。パンは「イエス自身」を指し、「このパンを食べる」とは「イエスを信じる」ということになります。このパンはご聖体です。 今日の福音は「週の初めの日(日曜日)」に起こり、日曜日のミサと関係する出来事です。イエスは「見ないのに信じる人は幸いである」と言います(29節)。これは、ミサの中で、肉の目ではイエスが見えなくても、信仰の目では礼拝の真ん中に立つ、あるいは聖体という形で現存されるイエスを見ていた信者たちがいた、ということを暗示しているのです。 2020年4月19日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 信徒の皆様、「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」を掲載しました。 主任司祭は未公開ミサで祈っています。皆様も家でお祈りください。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り いつくしみ深い神よ、新型コロナウイルスの感染拡大によって、今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。 病に苦しむ人に必要な医療が施され、感染の終息に向けて取り組むすべての人、医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。 亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、尽きることのない安らぎに満たされますように。不安と混乱に直面しているすべての人に、支援の手が差し伸べられますように。 希望の源である神よ、私たちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、世界のすべての人と助け合って、この危機を乗り越えることができますようにお導きください。 私たちの主イエス・キリストによってアーメン。 希望と慰めのよりどころである聖マリア、苦難のうちにある私たちのためにお祈りください。 2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ‘20.4.19非公開ミサ福音説教原稿(復活節第2主日)