6/14 キリストの聖体 主日ミサ説教
2020/6/13
いのちの交わりの秘跡―キリストの聖体A年 ヨハネ・ボスコ 林 大樹 第一朗読(申命記8章2-3節、14b-16節a) イスラエルは荒れ野で文字通りに飢えや渇きを経験しました(3節a)。しかし、この飢えや渇きは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことを教えるためのものであったと説いています(3節b)。苦しみにせよ、飢えにせよ、それをゆるす神には意図があります。困難のときこそ、誰が自分の支え手であるかを確認するためのチャンスとなります。しかし、困難なときに「主の口から出るすべての言葉」を読み取るためには、「肉(人間的)」のレベルではなく、「霊」のレベル、つまり「信仰」のレベルで出来事の背後にある意味を見ることが必要です。 「肉(人間的)」のレベルでイエスの話を受け取った「ユダヤ人たち」(今日の福音 52節)は、イエスの話につまずき、心を頑なにして不信仰に陥ります。 第二朗読(Ⅰコリント書10章16-17節) キリストを信じる信仰によってパンを裂くとき、それを食べる者は一つの「キリストの体にあずかる」者とされます。「あずかる」とはキリストと信者の交わりを指し、「キリストの体」は「教会」をも視野に入れています。「皆が一つのパンを分けて食べる」ことによって、多くの者である私たち全員がキリストの体として一体となるのです。 福音(ヨハネ6章51-58節) ➀ 五千人の給食物語、イエスのあがないの死、ご聖体(51節) イエスは「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」と言います(51節c)。これは「ご聖体」として与えるパンであるとともに、イエスの「あがないの死」を象徴的に表しています。今日の福音に認められる特徴は、⑴五千人の給食物語、⑵イエスのあがないの死、⑶ご聖体、の三者の教えが混同していることです。 ヨハネ6章は、イエスが五つのパンと二匹の魚を、五千人以上の群衆に分け与えられたという給食物語で始まっています(1-15節)。しかし、この「天から降って来たパン」が万民に供給される道は、イエスがご自身を犠牲としてささげられるまでは、まだ開かれていません。信じるすべての人に分け与えられる生きた食物となるために、「天から降って来たパン」は裂かれなければならなかったのです。要するに、「天から降って来たパン」の分与は、イエスご自身のあがないの死によってのみ可能となります。 ※罪のための犠牲(いけにえ)、あがないの死、神の小羊 犠牲(いけにえ)を償い(つぐない)として表します。ユダヤ教(旧約)の中で続いていた犠牲祭儀は、いけにえの動物をささげることを通して罪が赦され、神と人間が結ばれました。ですから、「罪のための犠牲(いけにえ)」と言う場合に、イエスの十字架上の犠牲を通して罪が赦され、神と人間が新しく完全に結ばれました。だからこそ、「新しい契約」(ルカ22章20節)と言います。「神はキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う(つぐなう)供え物となさいました」(ローマ書3章25節)。 別の意味でも「贖う(あがなう)」という言葉を使います。「罪を贖う」とは失ったものを買い戻すことです。イエスの命がお金であり、すべての人を買い戻します。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)。「神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた(おとしいれていた)証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ書2章13-14節)。 また、洗礼者ヨハネはイエスを見て「神の小羊だ」と言います(ヨハネ1章36節)。神が小羊の血を塗った家を過ぎ越すことによってイスラエルはエジプトの奴隷から解放されたように(出エジプト)、イエスの十字架上の犠牲によって私たちは罪の奴隷から解放されたのです。 イエスが与えるご聖体は、イエスが犠牲としてささげるご自身の肉と血です。イエスはご自身の「肉と血」を差し出すことによって、信じる者の中に「いのち」を実現させます。このご聖体を食べなければ、すなわち、信仰によってイエス自身の犠牲を受け入れなければ、私たちの内に永遠の命はありません。 ② むしゃむしゃ食べる(52-58節) 五四節以降繰り返される「食べる」は、もともと動物が餌(えさ)を「むしゃむしゃ食べる」の意味です。ヨハネがこの言葉をあえて用いたのは、イエスの肉と血をご聖体として実際に「食べる」ことを明確にするためです。イエスの肉と血が「まことの食べ物、まことの飲み物」であると述べる55節を挟む54・56節の主語は「イエスの肉を食べ、血を飲む者」であり、まったく同じですから、それぞれの述語も同じことを表すと言えるかも知れません。とすれば、「永遠の命を得、イエスが終わりの日に復活させる」(54節)とは、「(その人は)イエスの内におり、イエスもその人の内にいる」(56節)ということと同じであり、これを実現させるのが「まことの食べ物」なのです。 今日の福音のまとめ イエスは「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と言います(56節)。聖体の秘跡というと、パンとぶどう酒がキリストに聖変化し、そこにキリストが実在するという点に力点が置かれがちです。しかし、ご聖体とは礼拝すべき「ご神体」ではありません。イエスが「父を通して」交わりに生きているように、ご聖体を食べる者も「イエスを通して」交わりに生きるようになります(57節)。イエスとの交わりこそ、永遠の命そのものであり、聖体の秘跡とは、この交わりを示し実現する秘跡なのです。 2020年6月14日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 キリストの聖体 2020年6月14日 いのちの交わりの秘跡 ヨハネによる(1)