6/28 年間第13主日ミサ 説教

2020/6/25

           宣教者-年間第13主日A年                              ヨハネ・ボスコ 林 大樹   マタイによる福音10章37-42節  イエスの到来によって引き起こされる事態(34-36節)-今日の福音の直前の箇所  「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘は母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(34-36節)。  マタイの共同体のイスラエル宣教の開始は、迫害を引き起こしました。その一つが家族の者との対立です。イエスは「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」と言います。ここに「ために来た」と訳されているのは、意図・目的を表す意味ではなく、「来た結果」としてそのようになったことを言います。  「剣」はヘブライ書4章12節の剣と同じで、神の言葉が人間の内部を刺し通すように、イエスの言葉も人間社会の内部、家族関係を刺し通す結果となります。イエスの前には中立状態は存在し得ないので、「平和の君」(ルカ2章14節)として到来した方は、受け入れられない時、受け入れる者との間を裂く剣となります。  35-36節の旧約句は、ミカ書7章6節からの引用で、終末時の正しい信仰者に必然的に襲いかかる苦難を述べる言葉として取り入れられたものです。10章23節では、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と述べます。このような背景から考えると、マタイは宣教者の受ける迫害や家族の者との対立を終末論的に理解しています。  イエスにふさわしい者のとるべき道(37-38節)-今日の福音  この段落は、「私にふさわしくない」を繰り返すことによって、イエスの生き方に一致するふさわしい宣教者の姿を明らかにします。  イエスよりも「父や母、息子や娘を愛する者」とは、「自分の十字架を担って(受け取って)イエスに従わない者」のことであり、このような者が「自分の命(魂)を得よう(見つけよう)とする者」と呼ばれています。  「自分の十字架を担って」(38節)の直訳は「彼の十字架を受け取る」です。「受け取る」(ラムバノー)は、41節では「(報いを)受ける」と訳されています。普通に、「十字架を背負う」と言うときは、別の動詞が使われます。例えば、マタイ16章24節「自分を捨て、自分の十字架を背負って」では、アイロー(取り上げる)という動詞であり、ルカ14章27節「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」では、バスタゾー(取り上げて背負う・我慢する)という動詞です。このような動詞を用いるのは、十字架刑を受ける者は自分の十字架の横木を背負って刑場まで運ぶという習慣があったからだと考えられています。「取り上げて背負い、我慢する」といった意味合いの動詞を使うことによって、十字架上で死んだイエスと同じ運命を担う覚悟が弟子に求められています。  イエスのために失うこと(39節)-今日の福音  「自分の命(直訳 魂)」とは、自分自身のことであり、自分を大切にする人々を指します。家族への愛は大事なものですが、家族を「イエスよりも」愛することは「イエスに従わない」ことに通じ(37-38節)、それは命への道ではない、とイエスは教えます。なぜなら、神の国をもたらしたイエスとの関わりを欠いているからです。生きるべき命を見いだし、獲得するためにはイエスとの関わりは不可欠なのです。ですから、「自分の命(魂)を得ようとする者」とは、イエスとの交わりをもたずに生きる者のことです。逆に「イエスのために」自分の魂を失う者は、生きるべき命を見つけます。  受け入れる人の報い(40-42節)-今日の福音  40節では、「あなたがた」を受け入れる人は、「私」を受け入れ、「私」を受け入れる人は「神」を受け入れることになると述べています。「あなたがた(=宣教者)」はイエスを、そして神を示す窓口となります。  41-42節では、「あなたがた(=宣教者)」を「預言者」、「正しい者」、「小さな者」と呼び換え、彼らを受け入れる人が受ける「報い」を述べています。42節では「受け入れる人」(40節)の代わりに、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」と言い換え、宣教者を受け入れるという行為を具体的に述べています。たった一杯の水が「報い」を保証するほどに、宣教者の役割が貴重なのです。  今日の福音のまとめ  今日の福音は、イエスの使徒派遣説教(10章5節b-11章1節)の結びになっています。本来、教会のために意図されているこの説教を、マタイは聖書の中に挿入します。マタイの共同体は、イエスの死と復活の完成を待って初めて宣教を開始します。そして、そのイスラエル宣教は激しい迫害を引き起こしました。  「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」(25節b)という言葉から、弟子たちはその師イエスと同じ苦難を体験しているのだという認識から慰めと同時に苦難に耐える励ましを得ていました。「僕は主人のようになれば、それで十分である」(25節a)は、弟子は苦難を当然の運命として耐えねばならないことを教える言葉として、初代教会に普及していた伝承でした。マタイは、宣教者の受ける迫害や家族の者との対立を、十字架上で死んだイエスと同じ運命を担っていると考えていたのです。                    2020年6月28日(日) 金沢教会 主日ミサ 説教 年間第13主日 2020年6月28日 宣教者 マタイによる福音10章37-42節

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